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インチキジェント・コスモス構想


最後に…

このブログのきっかけとなった授業も無事終了しました。
まあ、「アンコールがかかった」ので、もう一回やりますが、内心ではもう終わっています。
この実験につきあってくださった何人かの読者の方にお礼いたします。




試みを通して、経営というものを自分なりに考えてみました。
結局、現在主流の(そろそろ過去のものになりつつある)マイケル=ポーターの競争優位的な発想がもう無理なんだろうなあと思います。
その無理を認めないで、無限の成長という前提を信仰し続ける限り、経営学とかその宣教師であるところのコンサルタントというのは、役立たずというか有害無益な存在で終わるでしょう。

(話は飛びますが)
社会保険庁の年金記録のずさんが明らかになっています。
お役所仕事の典型例ですが、では、民間はこうした事態を知らなかったかというと、そんなことはないです。
21世紀に入った頃、日本にある「あらゆる」コンサルティングファームは、電子政府なんちゃらと言うものをあおってましたし、何らかの形で(実際に受注できたかどうかは別として)関与していました。

その結果が、住民台帳だったりするわけだが、セキュリティやプライバシーの問題もあり、参加してない自治体もあるから、結局のところひいき目に見ても部分最適にしかならず、その電子化されたシステムの裏側では、プリントアウトして回覧して捺印しているようなしくみがまだまだ残っているのだが、こうした事務フローのカイゼンはどこへ行ったんだ?
一事が万事この通りで、不採算で廃止になるパスポートの電子申請だったり(一件あたりの処理コストが確か300万円とかで終わったと聞いた)、社保庁の件に関してもクライアントの不備不手際があったとは言え、そこまで含めて「0ベースでカイゼンして再構築」というのがコンサルのうたい文句であったはずだが。

当時、駆け出しのコンサルとして、電子政府推進組を端で見ていて、プライバシーとかの倫理面は棚上げにして、単にソリューション(最近は流行遅れの言葉となったなあ)としてできが悪くないか?と疑問に思ったものだった。
管理の効率だけから言えば、総背番号制は効率が良い。
そこまでは、すぐに思いつくわな。
だけど、住民基本台帳と社会保険を連動させてしまえという人は少なかったし、戸籍も一本化してしまえば、効率上はもっと良いはずなのだが(重複管理でムダだ)、戸籍を廃止しようと公然と主張したファームはなかったし、そう言ったコンサルもいなかったことに、「不思議だなあ?」と思っていた。

結局、コンサルティングファームはコンサルでは食えていなくて、システム屋なんだなと、そのビジネスモデルを理解できて、疑問の一画が氷解し、あと、「ゼロベース」というのが空念仏であったのが本当の意味で理解できたのは、コンサルを辞めて冷静に考えてみてからだった。
結局、ゼロベースで既存の仕組みに挑み、合理的な全体解決を実現する気なんてコンサルの上の人にはさらさらなく、ノルマの売上を達成するためには、むしろそうでないほうがたくさんの発注が取れるから都合が良かったんだよなあ。
やってることの規模がでかいから、ばれにくいだけの話で、緑資源機構とかコムスンとかミートホープとあんまり変わりはないのだなあと今になってつくづく思う。
ミートホープの社員が不正を知らなかったはずはなく、また実際に作業に関与していたと思いますが、同様に、社保庁のデータがメチャメチャなのはそのシステムに携わったNTTデータの人は当然知っていたと思います。
狭義のコンサルの人から見れば、データなんて会社はコンサルじゃねえよと言うでしょうが。
そういう人であっても、その人が属していたファームも社保庁やその他役所に営業はしていて、さんさんたる内情を知りながら、部分最適の実現すら怪しい提案やシステム構築の仕事をしていたはずなんで、弁解の余地なしと思うところである。



そうした人たちの一部(コンサルは3年で90%以上が退職する。その「難民」の全体像なんて知りようがない)は、ハゲタカファンドの偉い人になったり、有名どころの大学の先生になったり、あいかわらずコンサルとして意気揚々とした(で、たぶん、何年かするとバカバカしいことが露呈する)社会的意見を吐いたりしている。
たかる先(クライアント)やたかり方(ビジネスモデル)がちょっと変わってはいるけれど、傍目に見ると、要は他人の生み出した付加価値に、別のレッテルを貼って価値がもっとあるとか、実はさっぱりないからさっさと売った方が良いとかして鞘抜きしているだけなのにうんざりする。


この「うんざりする」という気分が、今回の試みの出発点だったりしたわけだ。
競争優位の発想は古いよとか、ファームの言うロジカルシンキングなんて嘘っぱちさと言うだけではなく、その先について授業を通して自分なりに考えてみました。
それは、書籍の形で世に問いたいと思います。
さっぱり原稿は進んでいないのですが、で、こんな風にブログにグチめいたことを書くよりは、とりあえず原稿に向かうべきだと思うので、このブログは終了する次第です。

(乱筆乱文ですが、最後なのでご容赦ください。)
# by namake5963 | 2007-06-26 22:23 | 解放区


当ブログ廃止予定のお知らせ

このブログは、教育におけるネットの可能性を検討するため始めたものですが(そのころはYahoo!を使っていた。手入れしなかったので、もう残っていないが)、その役割を終えたので、近いうち終了し、ID自体を撤去する予定です。

当初の目的を外れて、愚痴のような文章が多くなりました。
にもかかわらず、読んでくださった方々には感謝いたします。
ありがとうございました。
# by namake5963 | 2007-03-31 18:27 | 解放区


フェミニズムの退潮に思う

BSアニメ夜話『あしたのジョー』を見ていて、「男の生き様」みたいな話が島本和彦から出ていた。
彼の「今の世の中に力石がいない。大人は力石として、その背中を追ってくるジョー(≒若者全て)に対して、自らを厳しく律してその存在を見せつけ続けなければいけない」という意見には大賛成だ!!

しかし、それを「男の生き様」と表現することには、私には抵抗がある。
「それは男か女かを問わず、人としてそうなんじゃないの?」とフェミニズムの「洗礼」を時代の風潮として受けてきた私は考える。
島本和彦がそう言うのは良い。
それが彼の個性であり、持ち芸なのだから。
で、フェミニズム全盛期のように、この手の発言にいちいちクレームをつけるべきだと思っているわけではない。(「運動」としてはそう言うものなのだろうが、それは正直言ってうっとうしい)
ただ、「男=人間」と見なすパラダイム、すなわち「女は人ではない」は、もうとっくに排されたと思っていたので、昨日の島本和彦の意見をあっさり香山リカがスルーというか同意したのには驚いた。

言葉狩りをしろと言うのではない。
「女性の、というかフェミニストの力石」がいるべきなんじゃないの?
「先人として自らに厳しくあり、後進に理想を示すのに男も女もありませんよ」と発言し、身をもって示す人はもう要らないの?そういう役割ってもう要らない?そこまで、男女の平等って実現した?
もしそうなら、それはそれでとても良いことなんですが。


今月号の『アニメがお仕事』!は、あいかわらず厳しかった。
このマンガにおいて、創造の世界から降りるということは、決定的な堕落を意味する(厳しく読むと、死ぬことより悪い。ここ数ヶ月の話はそうも読める。たぶん、「そうではない」という希望を作者はいずれ示すと思うのだが)のだが、主要キャラの一人が、「そっちへ行っちゃたか?」と思わせる展開で、読んでいてドキドキした。
それが話の主筋だったが、注目したのは、ここ数ヶ月ののんのちゃんの動きだ。
のんのちゃんというキャラクターは、アニメ業界に通じていて「解説役」にちょうど良いし、それでいて一途に恋する女の子であり、作品を構成し、ストーリーを進めるために便利だった。
だから、どこか嘘くさく、であるが故に、ちょっと魅力的な存在だった。
(つまり、こんな都合の良い女の子はいないよと言うような意味)

ところが先月から意外な展開を見せ始め(たのはむしろ二太のほうか?)、しっかりと自立の方向に歩み出した。だから、彼女はあこがれの二太君と距離もおけるし、しかし対等でいられる。
その自由を手にした。


BSアニメ夜話で岡田斗司夫が、「『あしたのジョー』における「あした」とは「自由」のことだ」と言っていたが、70年代が自由の時代であったように、80年代はその意義と限界を踏まえた上で、自立であり男女の「対等」(たぶん平等という単語よりはこちらの方がふさわしいと思う)の時代であった。
『アニメがお仕事!』の作者も私と同年なので、たぶんそのあたりにはこだわりがあるというか、敏感なのだと思う。(と思うのは、私の勝手な思い入れかもしれないが)
# by namake5963 | 2007-03-31 18:24 | 知的クラスター


鴨志田穣の死に思う

鴨志田穣が亡くなった。
私とほぼ同年代である。

彼の作品を読んだのは、彼の魅力に惹かれてのことではなく、西原理恵子の旦那という関心からである。
ジャーナリストは戦場でこそ鍛えられるという。
鴨志田穣は戦場に進んで出向いた人である。

で、成果物である書籍を見ると、故人に対して失礼な物言いとなるが、「二流」と言わざるを得ない。
ジャーナリストにとって最高の洗練の場である戦場(これがいかに「業」であるかはここでは問わないが)をくぐり抜けてきて、この程度のものしか書けなかったのかと、彼の師匠である橋田伸介同様にそう思う。
ジャーナリストなりライターとしてみると、しょせんは二流止まりであった。
彼の著作が、時代を超えて読み継がれることはたぶんないだろう。

では、彼の人生に意味はなかったかというとさにあらず。
今週号のアエラに載っている西原理恵子のインタビューを見ると、彼は一人の個人として立派に生き、旦那(と言う単語が適当か?要は西原のつれあい)として、問題は多いが、多大なる影響を与え、そして愛され、また子供たちに好かれて、そして死んでいった。
これは「有能である」ことよりも、意義ある人生であったのだと私は思う。

私は有能だが、人の気持ちが分からないところがある。
だから、たぶん愛される資格がない。
あるいは、愛されてもそのことに気がつかないし、そのありがたさが本質的な部分で、たぶんよく分からない。


鴨志田穣の人生は、私が選んだものと近く、それでいて質的には全く違ったものだった。
「無能」あるいはしょせん「二流」のプロであることを、なんだかんだ言って私は受け入れがたいところがある。
ぬけぬけと言えば、私は有能で優秀だから。
別に、鴨志田穣の人生をうらやましいとは思わない。
ただ、二流のプロではあるが、パートナーに愛され、子供を愛し、大した業績をなさずに死んでしまった彼の人生は、自分とは違った人生として感慨深い。
# by namake5963 | 2007-03-26 21:51 | 解放区


ツンデレとツンデレの間にあったもの その2

結論をいきなり言うと、80年代の(特に少女マンガにあった)自由や平等への思いはどこへ行ってしまったのだろう。
例えば、全盛期の『LaLa』が満を持してリリースした『サイファ』(成田美奈子)のヒロインであるアニスは「友情は、人間関係における最高の誉め言葉だと思う」ってなこと(つまり、男女間であっても友情こそがすばらしい)を言っていたわけなんだが、その期待に反して、『サイファ』は失敗に終わるんだよなあ。
(結局、シヴァとサイファの区別は最後までよく分からなかったし)
振り返ってみるに、恋愛と友情をテーマとしたマンガの最高傑作は『山田君と佐藤さん』(松苗あけみ)だったなあ。あの衝撃のラストシーンは、当時のマンガ読みの間で評判だったし、私はあれを読んで何が起きたのかしばらく理解できませんでしたよ!


では、その自由な恋愛や平等(であるべき)な男女関係と言う模索は、どこに行ったんだ?
時代とともになくなったのか?
あるいは、現代のティーンエイジャーはそうした問題意識を持たないのか?
と言うことを、考えてみようかと思って書き始めたんだけど、止めた。

なんでかって言うと、今月号の『メロディ』(全盛期の『LaLa』の衣鉢を継いだ雑誌であるよ)のよしながふみと羽海野チカの対談に全部書いてあったから。
うーむ、『ハチミツとクローバー』は実は『サラリーマン金太郎』だったのか!?
『NANA』って、「やおい」な話だったのか!?
すげえ、そんな解釈があるとは思わなかったよ。

その対談に圧倒されました。
必ずしも納得したわけではないのだけれど、例えば『NANA』の解釈に関しては、私は「精一杯背伸びしておしゃれしてる感じが何とも…」という石田敦子的理解をしてますが、この二人の解釈がすごくて、しばらく時間をかけて消化してみるかなという感じなので、このテーマに関してはしばらく保留。


誰かに読ませようとして書いている文章ではないので、まあいいか。
# by namake5963 | 2007-03-19 22:45 | 解放区

    
なまけることで「次のリーディングカンパニーをここから生み出していこう」
by namake5963
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