IE9ピン留め

最後に…
このブログのきっかけとなった授業も無事終了しました。
まあ、「アンコールがかかった」ので、もう一回やりますが、内心ではもう終わっています。
この実験につきあってくださった何人かの読者の方にお礼いたします。




試みを通して、経営というものを自分なりに考えてみました。
結局、現在主流の(そろそろ過去のものになりつつある)マイケル=ポーターの競争優位的な発想がもう無理なんだろうなあと思います。
その無理を認めないで、無限の成長という前提を信仰し続ける限り、経営学とかその宣教師であるところのコンサルタントというのは、役立たずというか有害無益な存在で終わるでしょう。

(話は飛びますが)
社会保険庁の年金記録のずさんが明らかになっています。
お役所仕事の典型例ですが、では、民間はこうした事態を知らなかったかというと、そんなことはないです。
21世紀に入った頃、日本にある「あらゆる」コンサルティングファームは、電子政府なんちゃらと言うものをあおってましたし、何らかの形で(実際に受注できたかどうかは別として)関与していました。

その結果が、住民台帳だったりするわけだが、セキュリティやプライバシーの問題もあり、参加してない自治体もあるから、結局のところひいき目に見ても部分最適にしかならず、その電子化されたシステムの裏側では、プリントアウトして回覧して捺印しているようなしくみがまだまだ残っているのだが、こうした事務フローのカイゼンはどこへ行ったんだ?
一事が万事この通りで、不採算で廃止になるパスポートの電子申請だったり(一件あたりの処理コストが確か300万円とかで終わったと聞いた)、社保庁の件に関してもクライアントの不備不手際があったとは言え、そこまで含めて「0ベースでカイゼンして再構築」というのがコンサルのうたい文句であったはずだが。

当時、駆け出しのコンサルとして、電子政府推進組を端で見ていて、プライバシーとかの倫理面は棚上げにして、単にソリューション(最近は流行遅れの言葉となったなあ)としてできが悪くないか?と疑問に思ったものだった。
管理の効率だけから言えば、総背番号制は効率が良い。
そこまでは、すぐに思いつくわな。
だけど、住民基本台帳と社会保険を連動させてしまえという人は少なかったし、戸籍も一本化してしまえば、効率上はもっと良いはずなのだが(重複管理でムダだ)、戸籍を廃止しようと公然と主張したファームはなかったし、そう言ったコンサルもいなかったことに、「不思議だなあ?」と思っていた。

結局、コンサルティングファームはコンサルでは食えていなくて、システム屋なんだなと、そのビジネスモデルを理解できて、疑問の一画が氷解し、あと、「ゼロベース」というのが空念仏であったのが本当の意味で理解できたのは、コンサルを辞めて冷静に考えてみてからだった。
結局、ゼロベースで既存の仕組みに挑み、合理的な全体解決を実現する気なんてコンサルの上の人にはさらさらなく、ノルマの売上を達成するためには、むしろそうでないほうがたくさんの発注が取れるから都合が良かったんだよなあ。
やってることの規模がでかいから、ばれにくいだけの話で、緑資源機構とかコムスンとかミートホープとあんまり変わりはないのだなあと今になってつくづく思う。
ミートホープの社員が不正を知らなかったはずはなく、また実際に作業に関与していたと思いますが、同様に、社保庁のデータがメチャメチャなのはそのシステムに携わったNTTデータの人は当然知っていたと思います。
狭義のコンサルの人から見れば、データなんて会社はコンサルじゃねえよと言うでしょうが。
そういう人であっても、その人が属していたファームも社保庁やその他役所に営業はしていて、さんさんたる内情を知りながら、部分最適の実現すら怪しい提案やシステム構築の仕事をしていたはずなんで、弁解の余地なしと思うところである。



そうした人たちの一部(コンサルは3年で90%以上が退職する。その「難民」の全体像なんて知りようがない)は、ハゲタカファンドの偉い人になったり、有名どころの大学の先生になったり、あいかわらずコンサルとして意気揚々とした(で、たぶん、何年かするとバカバカしいことが露呈する)社会的意見を吐いたりしている。
たかる先(クライアント)やたかり方(ビジネスモデル)がちょっと変わってはいるけれど、傍目に見ると、要は他人の生み出した付加価値に、別のレッテルを貼って価値がもっとあるとか、実はさっぱりないからさっさと売った方が良いとかして鞘抜きしているだけなのにうんざりする。


この「うんざりする」という気分が、今回の試みの出発点だったりしたわけだ。
競争優位の発想は古いよとか、ファームの言うロジカルシンキングなんて嘘っぱちさと言うだけではなく、その先について授業を通して自分なりに考えてみました。
それは、書籍の形で世に問いたいと思います。
さっぱり原稿は進んでいないのですが、で、こんな風にブログにグチめいたことを書くよりは、とりあえず原稿に向かうべきだと思うので、このブログは終了する次第です。

(乱筆乱文ですが、最後なのでご容赦ください。)
# by namake5963 | 2007-06-26 22:23 | 解放区


当ブログ廃止予定のお知らせ
このブログは、教育におけるネットの可能性を検討するため始めたものですが(そのころはYahoo!を使っていた。手入れしなかったので、もう残っていないが)、その役割を終えたので、近いうち終了し、ID自体を撤去する予定です。

当初の目的を外れて、愚痴のような文章が多くなりました。
にもかかわらず、読んでくださった方々には感謝いたします。
ありがとうございました。
# by namake5963 | 2007-03-31 18:27 | 解放区


フェミニズムの退潮に思う
BSアニメ夜話『あしたのジョー』を見ていて、「男の生き様」みたいな話が島本和彦から出ていた。
彼の「今の世の中に力石がいない。大人は力石として、その背中を追ってくるジョー(≒若者全て)に対して、自らを厳しく律してその存在を見せつけ続けなければいけない」という意見には大賛成だ!!

しかし、それを「男の生き様」と表現することには、私には抵抗がある。
「それは男か女かを問わず、人としてそうなんじゃないの?」とフェミニズムの「洗礼」を時代の風潮として受けてきた私は考える。
島本和彦がそう言うのは良い。
それが彼の個性であり、持ち芸なのだから。
で、フェミニズム全盛期のように、この手の発言にいちいちクレームをつけるべきだと思っているわけではない。(「運動」としてはそう言うものなのだろうが、それは正直言ってうっとうしい)
ただ、「男=人間」と見なすパラダイム、すなわち「女は人ではない」は、もうとっくに排されたと思っていたので、昨日の島本和彦の意見をあっさり香山リカがスルーというか同意したのには驚いた。

言葉狩りをしろと言うのではない。
「女性の、というかフェミニストの力石」がいるべきなんじゃないの?
「先人として自らに厳しくあり、後進に理想を示すのに男も女もありませんよ」と発言し、身をもって示す人はもう要らないの?そういう役割ってもう要らない?そこまで、男女の平等って実現した?
もしそうなら、それはそれでとても良いことなんですが。


今月号の『アニメがお仕事』!は、あいかわらず厳しかった。
このマンガにおいて、創造の世界から降りるということは、決定的な堕落を意味する(厳しく読むと、死ぬことより悪い。ここ数ヶ月の話はそうも読める。たぶん、「そうではない」という希望を作者はいずれ示すと思うのだが)のだが、主要キャラの一人が、「そっちへ行っちゃたか?」と思わせる展開で、読んでいてドキドキした。
それが話の主筋だったが、注目したのは、ここ数ヶ月ののんのちゃんの動きだ。
のんのちゃんというキャラクターは、アニメ業界に通じていて「解説役」にちょうど良いし、それでいて一途に恋する女の子であり、作品を構成し、ストーリーを進めるために便利だった。
だから、どこか嘘くさく、であるが故に、ちょっと魅力的な存在だった。
(つまり、こんな都合の良い女の子はいないよと言うような意味)

ところが先月から意外な展開を見せ始め(たのはむしろ二太のほうか?)、しっかりと自立の方向に歩み出した。だから、彼女はあこがれの二太君と距離もおけるし、しかし対等でいられる。
その自由を手にした。


BSアニメ夜話で岡田斗司夫が、「『あしたのジョー』における「あした」とは「自由」のことだ」と言っていたが、70年代が自由の時代であったように、80年代はその意義と限界を踏まえた上で、自立であり男女の「対等」(たぶん平等という単語よりはこちらの方がふさわしいと思う)の時代であった。
『アニメがお仕事!』の作者も私と同年なので、たぶんそのあたりにはこだわりがあるというか、敏感なのだと思う。(と思うのは、私の勝手な思い入れかもしれないが)
# by namake5963 | 2007-03-31 18:24 | 知的クラスター


鴨志田穣の死に思う
鴨志田穣が亡くなった。
私とほぼ同年代である。

彼の作品を読んだのは、彼の魅力に惹かれてのことではなく、西原理恵子の旦那という関心からである。
ジャーナリストは戦場でこそ鍛えられるという。
鴨志田穣は戦場に進んで出向いた人である。

で、成果物である書籍を見ると、故人に対して失礼な物言いとなるが、「二流」と言わざるを得ない。
ジャーナリストにとって最高の洗練の場である戦場(これがいかに「業」であるかはここでは問わないが)をくぐり抜けてきて、この程度のものしか書けなかったのかと、彼の師匠である橋田伸介同様にそう思う。
ジャーナリストなりライターとしてみると、しょせんは二流止まりであった。
彼の著作が、時代を超えて読み継がれることはたぶんないだろう。

では、彼の人生に意味はなかったかというとさにあらず。
今週号のアエラに載っている西原理恵子のインタビューを見ると、彼は一人の個人として立派に生き、旦那(と言う単語が適当か?要は西原のつれあい)として、問題は多いが、多大なる影響を与え、そして愛され、また子供たちに好かれて、そして死んでいった。
これは「有能である」ことよりも、意義ある人生であったのだと私は思う。

私は有能だが、人の気持ちが分からないところがある。
だから、たぶん愛される資格がない。
あるいは、愛されてもそのことに気がつかないし、そのありがたさが本質的な部分で、たぶんよく分からない。


鴨志田穣の人生は、私が選んだものと近く、それでいて質的には全く違ったものだった。
「無能」あるいはしょせん「二流」のプロであることを、なんだかんだ言って私は受け入れがたいところがある。
ぬけぬけと言えば、私は有能で優秀だから。
別に、鴨志田穣の人生をうらやましいとは思わない。
ただ、二流のプロではあるが、パートナーに愛され、子供を愛し、大した業績をなさずに死んでしまった彼の人生は、自分とは違った人生として感慨深い。
# by namake5963 | 2007-03-26 21:51 | 解放区


ツンデレとツンデレの間にあったもの その2
結論をいきなり言うと、80年代の(特に少女マンガにあった)自由や平等への思いはどこへ行ってしまったのだろう。
例えば、全盛期の『LaLa』が満を持してリリースした『サイファ』(成田美奈子)のヒロインであるアニスは「友情は、人間関係における最高の誉め言葉だと思う」ってなこと(つまり、男女間であっても友情こそがすばらしい)を言っていたわけなんだが、その期待に反して、『サイファ』は失敗に終わるんだよなあ。
(結局、シヴァとサイファの区別は最後までよく分からなかったし)
振り返ってみるに、恋愛と友情をテーマとしたマンガの最高傑作は『山田君と佐藤さん』(松苗あけみ)だったなあ。あの衝撃のラストシーンは、当時のマンガ読みの間で評判だったし、私はあれを読んで何が起きたのかしばらく理解できませんでしたよ!


では、その自由な恋愛や平等(であるべき)な男女関係と言う模索は、どこに行ったんだ?
時代とともになくなったのか?
あるいは、現代のティーンエイジャーはそうした問題意識を持たないのか?
と言うことを、考えてみようかと思って書き始めたんだけど、止めた。

なんでかって言うと、今月号の『メロディ』(全盛期の『LaLa』の衣鉢を継いだ雑誌であるよ)のよしながふみと羽海野チカの対談に全部書いてあったから。
うーむ、『ハチミツとクローバー』は実は『サラリーマン金太郎』だったのか!?
『NANA』って、「やおい」な話だったのか!?
すげえ、そんな解釈があるとは思わなかったよ。

その対談に圧倒されました。
必ずしも納得したわけではないのだけれど、例えば『NANA』の解釈に関しては、私は「精一杯背伸びしておしゃれしてる感じが何とも…」という石田敦子的理解をしてますが、この二人の解釈がすごくて、しばらく時間をかけて消化してみるかなという感じなので、このテーマに関してはしばらく保留。


誰かに読ませようとして書いている文章ではないので、まあいいか。
# by namake5963 | 2007-03-19 22:45 | 解放区


ツンデレとツンデレの間にあったもの その1
なんか最近「ツンデレ」という概念が出てきてると言うか、誰かが流行らせようとしているみたいだ。
うーん、もしかしたら今のティーンエイジャーには新鮮に映るのかもしれないが、これって70年代のドラマとかマンガでは、男がツンデレな設定がデフォルトだったわけで、それが逆になっただけではないのかな。
で、男性側がつんつんすると言う設定で、すでに散々、話が作られているわけで、立場を逆にしてもあんまり目新しいことはないのではなかろうか?
(男女の立場を入れ替えた「究極」の話であるところの、よしながふみの『大奥』がすでに出ていることだし)


むしろ、70年代の『おれは男だ』的なツンデレから、21世紀の女性側のツンデレにひっくり返る過程で起きていた試行錯誤の話の方が、知的遊戯としておもしろいのではなかろうかと考えてみたり。
男性ツンデレから女性ツンデレに移行する間の約20年くらいに何があったか、自分の思考を整理する意味で書いてみようかと思う。

かつて、少年マンガにおいては、「友情・努力・勝利」がメインテーマで、こういうスローガンの元にジャンプが躍進していたのだし、その前に流行ったマガジンの『あしたのジョー』とか『巨人の星』を見ても、男性はとにかくつんつんしてがんばっていれば良かった。
そう言うやせ我慢をしていれば、いずれヒロインはこっちを向いてくれる(あるいはつんを貫き通して女には目もくれない)のが主流だった。
ところが現実には、つんつんしていて男がモテルわけではない。あるいは、そんなやせ我慢をしている内に、別の軟派な男に意中の彼女を取られてしまう。もっと言うと、なんでやせ我慢してつんつんしてなくちゃならないんだ?というような世知に当たり前のようにみんなが気がつき始めた。
無理に巨人の星だの甲子園だのチャンピオンだのを目指すよりは、身近な女の子と話する方が楽しくないかと思い始めたのだった。

そんなころに登場したのが高橋留美子とあだち充である。
インベーダーの押しかけ女房(しかも美人でスタイルが良くてなぜか主人公にぞっこん)という現代に至るラブコメの基本パターンは高橋留美子が『うる星やつら』で発明した。
あだち充の登場はもう少し早いのだが、少女マンガ誌で『陽当たり良好』とかを描いていた頃は、たくさんいるその他大勢でしかなかった。が、同じようなマンガを少年誌というパラダイムに移すことで、その話は非常に新鮮に見えるようになりラブコメの大家になった。
(あだち充がブレイクした『みゆき』も押しかけ女房パターンだったなあ)
正確には、この二人に先行して弓月光のコメディ(『エリート狂奏曲』とか)が少女マンガ誌に載っていても男性に読まれたり、『翔んだカップル』の柳沢きみおとかがあるんだが、まあ、割愛。
1980年頃に、少年誌は恋愛というかその対象となるヒロインという概念を発見したのだった。
で、対応するヒーローの側も別に超人である必要も、あるいは才能も要らず、別に普通で良い。っていうか、その方が読者も感情移入しやすいと言うことが発見された。
で、バカみたいにたくさんのラブコメマンガが量産された。
うーん、もうそのタイトルも思い出せないものばかりだが、例えば『ザ・かぼちゃ・ワイン』とか『キックオフ』とか…。
(つづく)
# by namake5963 | 2007-03-10 04:14 | 解放区


コンテンツ産業の活性化(笑)
政府が音頭を取っているからなのか、他にめぼしい産業ネタがないからなのか知らないが、自治体がコンテンツ産業の育成だとか活性化だとか言っている。
コンテンツで産業の活性化を図るんだそうだ。

(今回はちょっと品が悪いです)
で、映像プロダクションを育成するとか言っているのを聞くと「バカじゃねーの」と思う。
言ってる意味が全然わかんないね。
映像プロダクションに落ちてくる制作原価、知らないのか?
元の予算の3~4割くらいのもんで、後は中間マージンではねられてるんだよ。
産業とか地域経済への波及効果とかをねらってるんなら、儲かるところを取らなきゃダメでしょ。
ファンドとか制作委員会を立ち上げるとか、つまり「プロデューサー」のポジションを取らないと儲からないんだよね。
具体的に言うと、角川春樹(笑)とか奥山良和(笑)とか西崎義展(笑)とか。
あるいは電通のポジションに取って代わるんだったら儲かる。

県とか市が、角川春樹(笑)とか西崎義展(笑)とかアントニオ猪木(笑)みたいな「狂人」と互して交渉できるわけはない。
だって、この人たちまともじゃないもん。
理屈もへったくれもなくて、自分の夢(笑)がただあるだけ。
その夢に都合良く酔って、どんな汚いことでもできちゃう。
だから、あの人たちは御殿に住めるし、その反面、刑務所の塀の向こう側に落ちちゃうこともある。
まあ、そう言う人たちと交渉したり、取って代わったりするのは、端から無理だと保身のための直感も働くのだろう。最初から、このジャンルへの参入は考えてないようだ。

で、プロダクションの育成というルートが、何でか知らないがすでに決まっているみたいだ。
なんとかコンソーシアムだとかクラスターだとかがいっぱい作られて、ああでもないこうでもないと会議しながら、同じようなレポートを書いている。
バカじゃないの!?
そのコンソーシアムとかクラスターの維持費用で、プロダクションなんていくつも作れるよ。
あるいは、その予算ですでにあるプロダクションに仕事出した方がずっと有効。
1000万円単位の金があるんだったら、現場に直接突っ込めばいいじゃないか。
現場の人間は喜んで働くと思うよ。
ただし、どんなものが上がってくるかは保証しないけどね。
それをコントロールするディレクターもプロデューサーも地方には「いない」からね。
できあがってくるものがどうなるかは、一か八かの賭になっちゃうのは確かだ。
(でも、角川春樹(笑)とか奥山良和(笑)とか西崎義展(笑)に依頼するよりはマシだと思うけどね。もっともこの人たちを動かすには桁が二つ足りないが)

でも、それで良いんじゃないの。
もし、コンテンツ産業の育成に、自治体が手助けできることがあるとすれば、金を出すことくらいで、口を出せることははっきり言えるけど全然ない。
映像の現場なんて、好きでやってるんだから。
と言うか、好きでないと続かない。
もう、一種の「業」だよね。
任天堂とか京アニがあるから、京都がモデルケースの一つらしいけど、あの人たちは「おもしろいゲームを作りたい」とか「良いアニメを作りたい」と思っているだけで、京都の町おこしをしようと思ってるわけじゃない(と思う)。
クリーションというのは、理屈には還元できないところがあって、そこがおもしろくもあるし、怪しい分野でもあるのだが、ばかげた情熱が要る。
だから、薄給でも働き続けられるんだよね。
まともではできない分野なんだよな。

今でこそ大家の扱いだけど、宮崎駿が『カリオストロの城』を外した(映画上映時は失敗興行だった)ころのインタビューとかを雑誌のバックナンバーで見ると、ただのアニメ職人バカ(←誉めてます)なんだよね。
当時はまだアニメーターだった安彦良和は「オリジナルビデオという企画が当たるかどうかは全然分からない」とか言いながら、要は「やりたいからやる」みたいなことを言ってる。
押井守は監督デビュー作である『オンリーユー』を宮崎駿からけちょんけちょんにけなされて、奮起して『ビューティフルドリーマー』と言う傑作をものにしたと同時に、原作者である高橋留美子に怒られて(それが直接の引き金かどうかは書いてないけど)、シリーズを降板してぶらぶらしてたりしてる。
同じ頃、庵野秀明は『帰ってきたウルトラマン』を自作自演で撮ったりしてるわけだ。
堀井祐二は自分やりたいようなゲームを作ってみたかったから『ドラゴンクエスト』を作ったわけだ。
今週号のヤングサンデーで島本和彦が、この頃の雰囲気を書いているけれど、変な情熱にあふれた時代で、それが四半世紀経ってビッグビジネスになるなんて、全然考えもしなかったよ。
それは、宮崎駿も押井守も庵野秀明も堀井祐二にしても、たぶんそう。

こういう才能を見いだして、自治体が金を出せるかと言ったら、そりゃあ絶対無理だ。
それこそ、神ならぬ身ではないのだから、そんなことは無理だし、自治体には向いてない。
それが分かんないんだろうか?

いや、たぶん分かってるんだろうな。
だから、明確な成果判定のされにくいコンソーシアムとかクラスターとかやってるんだよな。
で、「クラスター芸者」として座敷を維持してるだけなんだろうな。


何が書きたかったかというと、この「クラスター芸者が嫌いなんだ」
見苦しい。
自分では何も生み出さないし、生み出そうともしないし、その情熱もない。
絶対にリスクを取らないこの寄生虫みたいな連中が気持ち悪いと愚痴をこぼしたかったのです。
# by namake5963 | 2007-03-09 21:14 | 産業クラスター


風邪を引いた
体調がイマイチです。

ボーッとしながら、『風雲児たち』を読む。
ちょうど、渡辺崋山の話のところでした。

数年前であるが、渡辺崋山の生家を愛知県まで見に行きました。
お目当ては「不忠不孝渡辺登」の絶筆七文字。

崋山は田原藩の家老の息子とはいえ、極貧に暮らした人でした。
そんな状況にあっても、洋学に目覚め、その成果で藩政改革を志した人でした。
そのあたりが、戦前の教科書で美談にされちゃったために、戦後は忘れられた人です。
(政治の都合で、歴史の解釈が左右されるのは悲しいことですね)

で、いろいろするんですが、結局、蛮社の獄で捕まっちゃって、以後不遇な人生を送る。
今となってみれば、蛮社の獄というのは、でっち上げも甚だしい政治的反動でしかないのは明白なのだけれど、小関三栄や高野長英もこれを機に不遇の最期を遂げるのだから、ことは重大。
この数年後には、ペリーがやってきて開国となるわけで、いかに彼らに先見性があったかというのはこれで実証されているのではないかと思います。

そうした先人の知恵のなごりを拝見しようと、旧田原藩(愛知)に行っておどろきました。
ふるさと創生一億円で作られた立派なショールームで、うすっぺらく渡辺崋山の人生が提示されていただけでした。
お目当ての「不忠不孝渡辺登」の絶筆もレプリカがかざってあるだけ。
現地に出向いた甲斐は、全くありませんでした。

考えるに、愛知の人にとって崋山というのは英雄であると同時に、蛮社に手を染めた「異邦人」(ついでに江戸勤め忠臣で、地場になじみが薄かった)であり、獄につながれた罪人でもある。後者に関してはえん罪であるともう歴史上は確定していると思うが、それでも日本人の心情として「よその人」で「罪人」を持ち上げる気にはならないのであろう。
それでも、観光の目玉として、またふるさと創生一億円の使い道としては、ちょうど良かったのであろう。

さらに言えば、崋山は蛮社の獄で死に至ったのではない。
失脚して御家預かりになり、その御家での飼い殺し&いじめの中で、(あれほど藩のために尽くした忠臣で、しかもまずしい家庭にやさしかった人なのに)「不忠不孝渡辺登」と書いて腹を切った無念はいかほどであろうか。


ふるさと創生一億円に関しては、ろくな使われ方をしていないが、その中でもっともがっかりさせられる使い方が、渡辺崋山記念館ではないだろうか。
# by namake5963 | 2007-03-04 21:03 | 解放区


だらだらと忙しい
なんか、だらだらと忙しい。
大した量ではないのだが、ぽつりぽつりと仕事があって、なかなか休めないのだ。
あまり良い状況とは言えないなあ。
この後、仕事が詰まってくるのは目に見えているし。
# by namake5963 | 2007-02-28 21:10 | 産業クラスター


アニメがお仕事
こう来たか!?
ストーリーは大きく舵を切ったって感じですね。
# by namake5963 | 2007-02-28 11:52 | 商品ガイド


やる気なし
全然やる気なし。
夜はぐっすり眠れて、非常に快適。
健康なので、そのうちやる気が帰ってくるでしょう。
それまでは、休むか。


とりあえず、明日は『OURS』の発売日であるので、『アニメがお仕事!』の新作が読めるなあ。
あと、『さよなら絶望先生』。
後者は最近のお気に入りです。
ネガティブでやる気のない今の気分にピッタリだ。
(自慢して言うことではないが)
# by namake5963 | 2007-02-27 20:14 | 解放区


信仰の論理
いろんな組織の内側をのぞく機会があるのだが、むなしくなって疲れる。
そこで行われているのは、会議でも話し合いでもなんでもなく、要は自分の信仰を述べているだけの場が大半だから。
つまり、自分はこれこれの理念や目標を信じていると言っているだけであり、その教義に都合が良い根拠を並べているだけだから。
会議の名で行われているのは、どちらの信仰が正しいかのはてしない「宗教論争」である。あるいは、自分たちの信仰がいかに正しいかを確認するだけの「ミサ」でしかなかったりする。現実は必ずしも教義の通りではないのだが「ミサ」ではそうした現実は無視される。「それでも地球は回っている」と言えば制裁されるだけ。「異端審問」になってしまっている組織運営も多い。

なんで、こんな袋小路にはまってしまっているのだろうか。
一つには、日本での論理教育が間違っていることがある。
日本の教育では、論理立てに関して「AならばB」と言うやりかたは教える。
まあ、これは全ての基本なので、別に悪いことではない。
問題なのは、その単線思考を基本として教えるのではなく、唯一の思考形式として事実上教えてしまっていることだ。
つまり、Aではなく、XやYやZの場合の可能性を考えることを教えない。
一応、「客観的に」という倫理指導はされるけれど、それが論理を展開するテクニックとしてどういうことかについては指導してない。

まあ、信仰の論理があらゆる場合で間違っているわけではない。
例えば、100M走にあたって、、スタートラインに着いたら迷っていてもしかたない。むしろ、そんな発想は排除して神様にでもすがるなり、無我夢中になって自分を信じるなりする信仰の論理を採用すべき場合だと思う。ただ、どんなトレーニングをするかとか靴はどれを履くかとかペース配分をどうするかは、信仰の論理には適さない。にもかかわらず、合理性ではなく信仰の論理がけっこうまかり通っている。


もっとも、事は日本社会に限ったことではない。
先入観を排し、「客観的」に論理展開をすることを生業にしているはずの人たちがいるが、ではその人たちが本当に客観的かと言うと、そんなことはない。先入観を外し、世界全体を見渡して分析する手法を持っているのだが、その手法自体が自縛になっていて、その技法の奴隷になっている。私はここでいわいるロジカルシンキングで言うところのMECEを想定して書いているけれど、これがまたくせもので最初の先入観は外せても、今度は別のMECEという先入観の中に閉じこめられるという罠になっている。
愚考するに、客観などというものはなく、可能な限り主観を排する誠実な知的態度があるだけではなかろうか。

先日、コンサルティング・ファームの結構えらい人と話す機会があったので、なぜ、ファームのビジネスは今上手くいっていないのか。コンサルタントは優秀な人が多いし、またファームも優秀な組織である。にもかかわらず、新たな付加価値を生み出せないのはなぜかと言うような話を、MECEの限界に引っかけて聞いてみたら、イヤな顔をされました。
痛いところを突かれたようであり、またそこまで考えることは、「MBA教」の根本原理を危うくするので。
ファクトベースで、ゼロベースに考えることになっているはずの人たちなんですけどね。


結局、世に信仰の論理がはびこるのは、末法思想の世の中だからではないだろうか。
遠からず、国家税制は破綻するし、環境問題も厳しくなってくる。
個人の手にはおけない巨大な問題が突きつけられる。
そこに、自由で自立的な個人として誠実に向き合うのはしんどい。
まして、産業活性化に異議を唱えるような発言は、産業界からは異端として切り捨てられる。
(まあ、エコロジー芸者みたいな逃げ道はあるんだけどね)
そしたら、産業界の大意には寄り添いつつ、産業神への忠誠を誓い、その信仰の論理をふりまくわな。
で、それでも埋まらない心の空白は、別の(モノホンの)宗教や国家と言った強くて巨大なものにしがみつくことで対処しているように見える。


でもそれって、実業においては単なる問題の先送りだし、宗教としてみると、いくつかの原理主義に分派し、その間で妥協のない殲滅戦になってしまうと思うんだけどね。




だらだらと、陰鬱で、しかも論拠の薄い話ですいません。
# by namake5963 | 2007-02-21 20:54 | 知的クラスター


有閑
仕事が一段落して、ちょっとヒマ。
いいなあ、こう言うのって。
# by namake5963 | 2007-02-07 23:20 | 解放区


どこまで働くか?
好況というよりバブルなので、ヘッドハンターからの問い合わせがいっぱい。
転職口はよりどりみどりってな感じだ。

今の職場の契約が、一応の満期を迎えるのだが、継続のオファーが内々にありつつも、正式には無いので、保険の意味もあってあちこちと交渉中。

ただ、ちょっと気が重いのは、どの職を選んでも忙しそうなこと。
もちろん、転職の交渉に当たっては、その辺りの条件交渉はしっかりやるつもりだけど、「企業文化」として強迫的に働く職場で、なまけるという態度をどこまで押し通せるかは結構疑問。
押し通せば、たぶん半年とは持つまい。
だが、その職場の「文化」(あんなものは文化の名に値しないと思うが)に合わせれば、それはそれで半年もしたら嫌になるだろう。

たぶん、「どこまで働くか。そして、どこから働かないか」は自分で決めて交渉しなくてはいけないな。
もう、転職情報誌があおるような、あるいは「相場」として示すような条件に合わせるつもりはないし。

だいたい、年収ウン百万だとか1000万円越えだとかいうあおりは間違っているよ。
そう言う職場の時給は、マクドナルドのバイトよりやすかったりするし。
そう、要は高賃金の代償として、長時間労働が待っていて、ただただ疲弊する女工哀史みたいな暮らしが待っているだけだってことは、体験上、百も承知。

何をどこまで売って、どの程度、プライベートな時間を諦めるか。
そしてその代償として、どの程度の賃金を求めるか。
単なる条件交渉ではなく、ライフスタイルを巡る交渉がもうすぐ始まるのでした。
# by namake5963 | 2007-02-02 21:43 | 産業クラスター


給食費未払い問題について
先入観で書いたもので、読み返すと不適切な表現がありましたので、削除いたします。
# by namake5963 | 2007-01-27 19:37 | R&D


会社の体質
不二家の社長が「責任は私にある」といいながら「会社の体質に問題があった」という話を聞いて…

「それを何とかするのがトップたる社長の務めであろう」と思うのだが、そして経営学の教科書ではそう教えるのだが、確かに「体質」とでも言わざるを得ないような会社固有の性質というのはあるものだ。
コスト・カッターとしては優秀な(クリエイターとしては、またイノベーターとしては、あまり優秀ではなかった)カルロス・ゴーンが、「外人」という場の空気を読まなくて良い立場で、しかも、倒産寸前で社員に有無を言わせない状況で、そこにリバイバル・プランという劇薬を持ってしても、日産の独りよがりなくせに依存したがりな社風が変わらないように。

経営者にしても、もう何代も代替わりしているのに、いや、だからと言うべきなのかもしれないけど、カネボウはずーっと粉飾決算を続けていたし、それを見逃すことを是とする体質があったし、建築業界には根強い談合体質がある。
もちろん、良質のものが受け継がれる場合もあるのだが、美点というのは衰えやすく、また時代の変化の中で「善」を続けていくのは難しいものだ。

とは言え、代表取締役には、その立場と責任がある。
商法では、「会社の体質」なんで条項はないわけで、そんなものはいい訳にはならないことに、やはり変わりはない。
トップに立つからには、必要ならその「体質」と対決する義務があるわけで、退任に際してそんなことを言の葉に乗せるのは、やはり無責任で卑怯だと思うな。

# by namake5963 | 2007-01-15 22:51 | 産業クラスター


ホワイトカラー・エグザンプション
無制限残業および残業代不払い制度とでも訳せばいいのかな。

WEの美点は、コンサルの頃にさんざん聞いた。
曰く、自分の裁量で仕事が進められる。
てきぱきと仕事を片付ければ、自分の自由な時間が増える。
裁量労働制だからできる社員は給与も増える。
まあ、こんなところだったかな。
(正確には、裁量労働制であって、WEという言葉ではなかったが)

ついでに、ペーパレス&フリーアドレスのオフィスだったので、いつでもどこでも仕事ができる。
電車などの移動時間でも仕事ができるので、無駄な時間がなく、効率的に仕事ができるとか言っていたなあ。


全部ウソだった。
こうした制度は「中立」かもしれない。
しかし、その制度に注ぎ込まれる仕事の量は、完徹して週末返上しても終わらない量だった。

するととにかく、ありとあらゆるヒマを見つけては仕事をしなくては終わらない。
やってもやっても終わらない。
そうすると、PMから叱責が飛んでくる。
飯も食わず、夜も寝ないでやっても、やっぱり終わらない。
結果として、時給に換算するとマクドナルドのバイト以下だった。
これは、どのプロジェクトにアサインされた人も同様で、3年と持たずに9割がたの社員は辞めていった。その内の多くは、心と体を病んで。

WEに関して、きれい事を言うヤツは信用できない。
「労働者の実体」というものを理解してないか、するつもりがないかのどっちかだ。

マクロ経済的に言うと、合理的平準を実現する?
アホか!
そのマクロ経済的成果が上がるまでに何年かかる。
それまでには、現場は屍累々だね。
そのタイムラグがなぜ理解できない。
WEを合理的というなら、せめて、その移行期間の保障措置が用意されてないと、人は生きていけないんだよ。

それに、有能な人も楽にならないよ。
8時間の仕事を3時間で終わらせる人には、普通の人なら16時間かかる仕事が割り振られるだけさ。下手するとそう言うプロジェクトを複数任される羽目になる。

とにかく、WE反対。
私は、過労死させられるのは御免です。
# by namake5963 | 2007-01-12 20:43 | 産業クラスター


戦争の予感
旅行が好きだが、行きたいところが、紛争やらクーデターやらで、行きにくくなっている。
タイに行くつもりだったのが、クーデター騒ぎでしばらくは行けそうにないし、レバノンも、ほんの一、二年前には安定した行楽地だったのが、今やテロが頻発していて行けない。
さらに言えば、イスラエル。
中東和平が一瞬ではあるが、実現しているときに、行っておけば良かった。
今となっては、怖くてとてもいけやしない。

今のところ平穏だが、朝鮮半島も今後どうなるか分からないし、隣接する中国だってどうなることか。
ネパールあたりも狙っていたのだが政情不安だし、お気楽な観光地と思っていたバリもテロが時々あるからなあ。
自分ではあまり興味が無いが、アメリカも物騒だし、行く気になれない。

となると行けるところは限られてくる。
というか、こんなに海外旅行先が制約されるご時世になろうとは思いませんでした。


それでも、これらの政情不安やテロや紛争が、局地的なものに収まっている分には、まあ良い。心配なのは、それらが横に連動して、点から線に、線から面に拡大しそうなところ。
大規模な、言うなれば、世界大戦になってしまわないだろうか?

現時点では、対立軸が複雑過ぎて、大規模紛争にはなっても、世界大戦にはならないだろうが、「敵の敵は友」的な論理で、陣営が固まってくると、その楽観も通らないような気がする。

もし、世界的な大規模紛争がおこったら、たぶんそれはなかなか決着をみない「百年戦争」のごときものになるのではないだろうか。また、紛争レベルに留まらない世界大戦になったら、それはお互いの総力戦になるから、相手を殲滅、つまり「民族浄化」するところまで終わらない気がする。

いずれにせよ、そうなっては悲しい。
勝者なき消耗戦になってしまって、誰にとっても幸せではないことだろう。

だが、原理主義的な考え方が幅を利かし、またそれを刺激して加速するような愚行が、短期的政治利害のため(露骨に言えば、政権維持のため。支持基盤の人気取りのため)に続いているから、少々悲観的。

人類は、もう一回、悲惨きわまりない戦争をして、戦争がもはや勝者なきものであり、その過程と結果がどうしようもなく悲惨で無惨であることを思い知らないと、止まらないような気がする。
もっとも、その大戦の惨禍が、新たな復興を許すほど、「軽微」なものに留まるかどうかは知らないが。
# by namake5963 | 2007-01-06 19:14 | 知的クラスター


アニメがお仕事!を読んで…
海外から帰ってきて、雑誌やマンガを一気読み。
それはそれはバカみたいに、いっぱいマンガを読んだのですが、傑出してすばらしかったのは『アニメがお仕事!』でした。
いやあ、今月号は実に良い話でした。

最近のマンガは「対決」シーンで盛り上げることが多い中、そうと思わせておいて、それを軽々と超えて行ったところがすばらしいですねえ。
あと、ついに「うまくなる」という段階を超えて、「自分の個性を出す」という領域に突入したのもいいなあ。
どうしても、「対決」の話だといかに「うまくなるか」とかどれだけ「うまくなったか」で話が煮詰まっちゃう。
また、人生とか生きる喜びって、「対決」じゃあないんだと思う。
「対決」を通して「熱いゲームをありがとう」ってな具合に、勝ち負けとは別の喜びに達することもあるけど(このパターンの傑作は『フィフテーン・ラブ』。先の台詞はそっから引用しました。ヒロミとデビィの試合の後の名場面だが、もうずいぶん古いマンガだよなあ)、本当は、勝ち負けという天井を超えた、自分としてこれがしたい。それができれば、ほかのことはどうでも良いというその次の段階があるのだと思います。
そのあたりが、実にうまく書かれていて、たまりませんでした。


あと面白かったのは、サンデーGXの『新・吼えろペン』。
何も言うまい。
すごいぜ。
# by namake5963 | 2007-01-04 19:04 | 解放区


みっともない光のページェント06
去年も書いたネタだが…

光のページェントが金欠だそうだ。
主催者が今年は声を大にしているようで、いろんなメディアで金欠の話を目にする。
それなりにきれいなイベントなんだから、無粋な話はやめろよと言いたい。

なんとかしたいのか?
だったら、アドバイスして差し上げよう。
とりあえず、青葉通りの飾り付けはやめろ。
ページェントを見に行く人は定禅寺通りに行くんであって、誰も青葉通りになんていかないから、どうせ誰も見てないんだし。

その程度の改革すらできないだろ?

誰も見ない青葉通りに中途半端な電飾をするのは、藤崎デパートの顔を立てるためなんでしょ。地元財界のボスのお膝元をカラにはできないっていう財界の内輪事情があるから、無駄と分かっていてもやめられないんだよね。

悪いけど、藤崎に客動員かけるために、なんで市民が募金しなくちゃ行けないの?

とにかく、七夕であれページェントであれ、地元財界のケチっぷりには呆れる。
市民の募金でページェントしておいて、飲食料金をこの期間だけ値上げしてみたり、ここぞとばかりにホットペッパーに広告を出すくせに、ページェントそのものにまわす金はないのな。

ページェント自体は否定しない。
珍しく、仙台発の良いイベントだと思っている。
だけど、募金でイベントしておいて、売り上げの皮算用だけ高めに取るっていうのは、感心できないなあ。
# by namake5963 | 2006-12-15 19:39 | 地域コンソーシアム


珍太郎日記
私の記憶が確かなら、NHKの少年ドラマシリーズに『珍太郎日記』という話があった。

小学生の珍太郎君が主役だったのだが、私の記憶に残っているのは、彼のろくでなしのおじさんのことだ。
NHKの子供向け番組とは思えないことに、そのおじさんは定職もなく、都市計画に失敗して袋小路のようになった道路(まあ、一種の空き地だと思ってください)にバラックを勝手に建てて住んでいて、電気は電柱から勝手に電線を引いて「盗電」して暮らしていたのでした。

30年前には、こういう暮らしが許容されていたよなあ。
正確には、30年前にはこうした暮らしはほぼ絶滅していた。
ただ、その一昔前には確かにこういう暮らしがあって、昭和末期にもそうした暮らしを社会が許容する文化があった。
まあ、フーテンの寅さんのカテゴリーに入る人たちを、そう言う人たちもいるよなと、見逃すというか、普通に社会の一員としてみなす余裕があった。

ニートとかフリーターとか昨今言われるけれど、一昔前には、フーテンとか穀潰しとか言われながら、ぶらぶらしていた人はやはりいたと思う。
それが、社会的に許容されていたのは、高度成長期故の社会的余裕であったのではなかろうか。
高度経済成長期よりも、現在の方がGDPで見れば上なのだが、そういう余裕は失われてしまったなあとつくづく思う。
# by namake5963 | 2006-12-14 15:40 | 解放区


今月号の「アニメがお仕事!」
うーむ。
今月号は主人公たちが幸せというか充実感を味わう話でしたが…
何となく感情移入できず。
仕事においてスピードってそんなに大事か?
最初の頃から伏線としてあったけどなあ。
でもって集団作業だから、確かにスピードは要るんだけどね。

つまり、「仕事ができる」ってことが、そんなに大事なのかと思っちゃったわけです。
アニメ業界では、単価が安いって話はさんざん出てきてるわけで、そうすると量をこなさないとやっていけない。
まあ、アニメ界はさておいても、ビジネス全般においてスピードは要求されるわけですが、その速度がない人はダメなのか????というのは、ここしばらく考え続けていることで、あっさりと、仕事がスピーディにできることが祝福されていることに違和感があったのですよ。(まあ、先月号でどん底に落とした「反動」でもあるので、来月号ではまた違った展開があるかもしれませんが)

『アニメがお仕事!』は凡百のビジネスマンがとは違うと思って見ているので、今回の話にはよけい凹む。
なあ、そんなに仕事ができるって大事なの?
(まあ、「アニメ後家」とまで言われるくらいアニメーターという職業に没頭している主人公だから、この作品世界では良いのか)

とりあえず、判断は保留。
このマンガにしても、まだ結論が出た訳じゃないし、安直な答えを出さない真摯でタフな作家さんが書いているマンガだから、来月以降も読みますよ。
ええ、来月号が楽しみです。



いろいろ違和感を抱えつつ、勢いで何冊かの「課題図書」を読破。
マーケティングの本とか読んでも、ぜんぜん面白くない。
原稿を書くために、読まなきゃいけないから読むけど、それだけだなあ。
「経営」とか「マーケ」に関しては、専門家の間でも出る話だけど、もう行き詰まり感があるよね。同じパターンの繰り替えしだし。

で、勢いで、高橋留美子の『赤い花束』をたまたま手に取る。
初めて読んだ時も思ったけど、傑作ですね。
社会的成功という要素なしに、幸福を描ける力量、恐るべし。
ずっとリアルタイムで、高橋留美子という漫画家とつきあえたのは幸せなことなのかもしれないなあ。

サングサンデーの『1 ポンド の 福音』が終幕に向けて、(何年ぶりだ?ブランクは10年くらい)再開されたけれど、『犬夜叉』も終わりが近そうだし、『うる星やつら』と『めぞん一刻』を同時に終わらせたときみたいに、自分の中で幕引きをしようとしているのかもしれないなあ。
「新鋭作家」だった高橋留美子も、もうデビューして30年近いんだもんなあ。
(いつまでも、青春ドラマでもないと思ったのかもしれないことであるよ。)


なんか、とりとめのない話になってしまったな。





赤い花束―高橋留美子傑作集
高橋 留美子 / 小学館
スコア選択: ★★★★★

敵あるいは社会的成功といった外部要因なしに、幸福を描いた短編集。絶妙である。
# by namake5963 | 2006-12-02 23:14 | 解放区


「先生」という見えない天井
学校の先生は、生徒の学力(広い意味での知的能力)の向上を手助けするのが本分。
世の中にダメ教師は多いが、さすがにこれを否定する人は少ないだろう。
少なくとも表向きは、「生徒の知的能力の向上」を口にするし、その錦の御旗の下に授業をし、また学生に学習を強いたり促したりしているのは間違いないだろう。

ではその授業が、学生が必要とする知的情報の伝達とか能力の改善となっているかというとはなはだ疑問。
また、内田樹氏のブログに絡めて言うと、「どうして仏文科は消えてゆくのか?」のは、「文化資本」としてのフランス文化の価値が低下しているからで、別になげくことでもなんでもないと私は思う。
まさに、「文化『資本』」ということばで表されているように、(労力とか時間とかお金などの)投資は有限なのだから、高いリターンの見込めるところに集まるのは、経済的に理にかなった話である。
30年前くらいまでは、フランス文化が特にアカデミックな部分で先導したところがあるので、その教養を習得しておくのは、実利があった。学園紛争の昔からニューアカの頃までは、「ナウなヤング」にとって、おフランスは格好良かった。だから以前は仏文科が流行った。その利益がなくなったから、今では廃れた。それだけの話だと思う。
似たような話を漢文の先生とかは、50年前から言っていると思うが、それは江戸時代(明治初期)までは漢学が基本教養で、それを知っていると有利だったから普及していて、洋学にブームが移ると廃れたのと基本的に一緒でしょう。

なんで、内田先生はこうも仏文の衰退を嘆くか?
あるいは、声を大にして「女子大有用論」を説くのか?

それは単純に、この先生が神戸女子大でフランス哲学を教えてるからだと思う。
自分のビジネスモデルを崩したくない。
自分というリソースを高付加価値な位置にポジショニングしておきたい。
それだけではなかろうか?
でなければ、「どうして仏文科は消えていくのか?」への答えが、科挙の復活だったり((´ヘ`;)ハァって感じですね)、神戸女子大の人気ランキングが、関西私大で屈指の高さで、女子大では一番だなどと無邪気に喜べるのか説明できない。


ことは内田先生に限ったことではない。
多くの先生が自分のリソースの優位性を崩したくない。
なので、世の中の推移を認めたくない。
だから、学校の先生は時代の変化に抵抗する。
「風潮に流されず、本質を教える」ような立派な先生もいるが、多くの先生は自分が食えなくならないように、「自分が持っている知的資源は有用だ」と言っているに過ぎないように思う。

職業実践を前提とした学校の先生と話してみるとてきめんだが、あの人たちが教えている技能は古い。「基礎を教えている」のではなくて、その名の下に一昔前の技能を教えているだけである。
さらに追い打ちをかければ、その分野で食っていけないから、先生に逃げ込んでいるだけで、その無能がばれないように権威主義的だと思う。

だから、知的技能の生徒への移転に関して、先生方の行為は非効率的である。
だって、効率的に教えたら、自分の資源が底を突いてしまうから。
そうした売るものがなくなって、おまんまの食い上げになると恐れているように見える。
先生方の意識の陰には「自分がこんなに苦労して習得したことを、そう簡単に身につけられてたまるかよ」という思いがある。
生徒には「優秀になれ」と命じる一方で、「自分よりは優秀になるな」「少なくともそう簡単にはさせないぞ」という矛盾するメッセージが出ている。
つまり、先生方は「自分が持っている知的資源は有用である」「だから、生徒はそれを学ぶべきである」「ただし、その「秘技」は、先生が月謝をもらう関係上、長い期間をかけなければ伝達されない」「したがって、生徒が足早に優秀になっては困る」という閉塞モデルになっているように思う。
そうとでも考えないと、今学校で行われている非効率は説明できない。


先生は「踏み台」になれば良いのだと思う。
「出藍の誉れ」とも言うように、自分という「藍」よりも生徒が「青」であることに価値を見いだすべきであって、生徒が自分より「青」であることに嫉妬せず、それを喜びかつてだすけしてこそ教師であろう。
世阿弥がいう「守・破・離」にしても、「破」と「離」のための「守」であって、いつまでも師の言うことを墨守していては、芸の発展も個性の発露もない。師がなすべきは「破」と「離」にたえる基礎である「守」の段階を早々に終わらせることであり、それが優秀な師ではないだろうか。
(たぶん、続く)
# by namake5963 | 2006-12-02 12:42 | 知的クラスター


学生の知的水準は本当に低下しているのか?
内田樹氏のブログ(http://blog.tatsuru.com/2006/11/22_1104.php)を読んでいたら、「一億総学力低下時代」と題された話が載っていた。
話は多岐にわたるのだが、大学入学を控えた学生の知的水準の低下が著しいということが論旨の一つであることは間違いない。


さて、これは本当だろうか?
大学生や高校生の相手をしていると、「こんなことも知らないのか」と驚くことはしばしばある。
が、それをもって知的水準の低下と断じてしまって良いものだろうか。
確かにある種の教養が欠けているとは思うけど、だからといって知性が劣るとは思わない。
つまり、人間には知的情報を受容できるキャパがあって、そのキャパの使い方が変わってきたのではないかと思うのです。

これが40年前であれば、ネットも携帯もないし(下手をするとテレビもない)、流行歌のはやり廃りのスパンも長く、また学生がファッションにうつつを抜かすこともなかった。
しかし今では、ネットや携帯のリテラシーなしに現代的な生活は送れないし、ファッションに無頓着ではオタクとののしられ、流行について行かざるを得ない。
この「激動」の時代に、30年一日のごとき古典教育を真に受けていたら、現代人として生きていけない。

確かに、現代の学生は『源氏物語』の作者を知らないし、『枕草子』も『徒然草』も読んでないだろう。しかしそれで、何が不都合があるんだろう。国語科の教師にとっては、自分の仕事がなくなるから「古典文学は日本文化を継承するにあたって不可欠な教養である」と言うだろうけど、現代の生活を送るにあたって、これらの古典が話題になることはまずない。
代わりに学生は『ナウシカ』の監督が宮崎駿であるとか、『ハルヒ』を作っているのが京アニであることを知っていて、その中に出てくる台詞や設定が、文化的共通基盤、すなわち教養になっているのだと思う。
現実に、海外をふくめて同時代人とコミュニケーションを取るにあたって、マンガやアニメの話はとても役に立つ。
軽佻浮薄といわれる学生たちは、(無意識かもしれないけど)生き残り戦略として、古典的教養をリストラし、現代的知識に重点を置いているのではなか。


人には、学ぶことができるキャパがある。
一度に大量のデータを提供されても、脳味噌に収納することはできない。
一方で、かつてなら、身につけておくべき教養が標準化されていた。
その善し悪しは別として、マルクスだったりデカンショ(デカルト・カント・ショーペンハウエル)だったり、とまあ、一応のスタンダードが用意されていたわけだ。
一昔前のスタンダードを、現代の学生が身につけていないからと言って、「学生の知力が低下している」というのは言い過ぎだと思う。(いまさら、「デカンショ」を強要しても、知的水準は向上しないと思うな)
先生方に欠けているのは、古典としてやはり現代でも習得すべきモノと、そうでないものを区分けし、前者の習得に注力することである。自分たちが苦労して身につけた後者を、「現代では価値がない」と判断するのはつらい行為であろう。だから、学生へ習得させようとする知識・技法は増える一方である。
おまけに、知識伝達手段も古めかしい。
教室での授業を見ていると、いまだに板書をノートしている姿がある。
それを見ると、めまいを禁じ得ない。
もちろん、書いて覚えるしかない教科もあることは否定しない。
しかし、そうでない教科も多くあるにもかかわらず、未だに板書&ノートというレガシーデバイスで授業が行われている。

メソッドは改善されないのに、要求される量と質が上がる一方なのだから、学生は大変だ。
しかも、学校が教授する授業では、現代を生き延びるための知識を習得するには全然足りないし、また方向も外れている。
頓珍漢な授業体系と、そのチェックポイントである受験で、時代遅れの教養を強要することにどれほど意味があるのだろうか。
(そりゃあ、オーバーフローして、学生がいろんな問題行動を起こすのももっともだよ)

真の意味で、学生の知的水準を高めるには、これからの時代に合った教養のミニマムを抽出し、それを効率的に教える技法の確立することだ。それは間違っても、教育基本法の「改正」などではない。(←これは、またムダな知識と様式の強要だし、それがムダであるという気づきを失わせる旧教育制度の延命でしかなく、要は教師と官僚と政府の無能を覆い隠す以外の「効用」はない)


この話は続きます。

# by namake5963 | 2006-11-23 23:01 | 知的クラスター


サラリーマンの勤続疲労
転職にらみでいろんな管理職や経営者と会っているのだが、感じるのは「みんな疲れているなあ」ということ。
単純に疲労が隠せない人もいれば、繰り返しの仕事に飽きている人もいる。
仕事に充実感が全く感じられない。

中堅から次世代トップがこういう状況なのは、退職を控えた団塊さんたちが自分たちが在職中だけ問題が起きなければいいという先延ばしのツケを、すでに今の段階から回されているからである。
仕事量は膨大だし、しかも不毛。
だって、とりあえずあと数年は何もしないことを維持するための仕事だから。
あるいは、退職にあたって派手な構想だけぶちあげて、その実はなんにも考えてないなんて仕事の後始末をしている。
そりゃあ疲れるわけだ。

さて、来年以降はその世界に戻ってゆくことになるのかなあ。
なるべくなら避けたいモノですが。
# by namake5963 | 2006-11-15 01:03 | 産業クラスター


クールビズ2006総括
木枯らしも吹き始め、クールビズも季節はずれな話題になりました。
と言うことは、総括できるってことで。
主に、政治家の服装を見ての感想を書きます。

去年のクールビズは、スーツ姿からネクタイを外して、ワイシャツの第一ボタンを外しただけだった。なので、ただだらしない印象がぬぐえなかった。何か、仕事帰りに新橋のガード下あたりでメートルが上がったサラリーマンみたいだった。
そう言う印象をスタイリストの方々(今や政治家にもスタイリストが付く)も思ったようで、今年はシャツに一ひねり加えて、ワイシャツを必ずボタンダウンにしてきた。つまり、スーツ姿からネクタイを外したのではなく、最初からネクタイを前提としないシャツを着ているんですよという記号にしたかったらしい。

まあその意図は分からないでもない。
アメリカ流のボタンダウンはノータイで着られるシャツだから、だらしなくネクタイを外したのではなく、最初からファッションの意図としてネクタイをしてないのだという風にコーディネイトしようとしたようだ。
が、アメリカ流のボタンダウンは、紺ブレとワンセットである。もちろん、スーツに合わせることもあるが(そしてそれは男性の服装の文脈から言うと本当はおかしいのだが)、その場合は必ずタイをする。
スーツ姿でボタンダウンでノータイという組み合わせは、ボタンダウンの本場である英米圏でもない。ボタンダウンであるかどうかにかかわらず、ノータイの時には、ノータイが似合うようにできたジャケットを着るのであって、上下共生地のスーツを着ることは本来ない。
なので、今年の政治家のクールビス姿を見ていると、スーツしか持ってない年配の方が、妙にしゃれっ気を出して、カジュアルなシャツを着ているアンバランスが目立った。
そう、必ず色物か柄物のシャツだったしなあ。
あれだったら、いっそ上着を着なければいいのに。

上着は、ビジネス含めて公的場に身を置いている記号だから、それは外せないという意図は分かる。だったら、ノータイ用のジャケットを着て、別の服地のパンツをはけば良いんじゃないの?その方が文脈上は正しいよね、と思いつつも、それはそれでおしゃれすぎて、お堅く泣ければならない政治家としてのあらまほしき服装ではないのだろうと勝手に想像する。
その妥協点が、今年のスーツ&ボタンダウン&ノータイという組み合わせになったのだろう。

男性服装史において、史上類を見ない格好を今の日本の政治家たちは率先してやっているわけなんだが、来年はどうなることやら。
首相が替わったので、あっさり廃れるかもしれないし、意外なことに外人さん(在日アメリカ人)が「クールビズ」な格好をしていることもあって、世界に広まってゆくかもしれない。
要注目である。
(とりあえず、夏物のスーツは当面買わないことにしよう。いらなくなる可能性もあるので)
# by namake5963 | 2006-11-13 19:08 | 産業クラスター


ハチクロへの違和感
『ハチミツとクローバー』のキューティ版第一巻が出てきたので、久しぶりに読んでみて、かねてから抱いていた違和感の原因が分かったような気がしました。

つまり、私ははぐちゃんがあんなにモテる理由が全然理解できないのですよ。
あゆがモテるのはよく分かるんですが、あの小学生みたいなはぐちゃんのどこが良くて、恋に落ちるの竹本君&森田さん。ついでに、修ちゃん。


ちなみに読んでいない人のために、『ハチミツとクローバー』(ハチクロ)のストーリーをかいつまんで言うと、「一応の主人公であるところの竹本君が、新入生のはぐちゃんに一目惚れしたけれど、はぐちゃんの恋愛対象には彼は全く入ってこなくて、キスはおろか手をつなぐことすらなく卒業に至る。ただ、その旅立ちの際にはぐちゃんが手弁当を作ってくれたので感涙を流す」話です(超訳)。

似たような外見を持つヒロインのマンガとして『いばら姫のおやつ』があります。
まるで小学生のような外見とモテモテ(あと家族に恵まれない)と言う共通項はありますが、後は正反対。精神的に弱いはぐちゃんと屹立した自我を持つ『いばら姫』の知花。結局誰とも恋愛しないはぐちゃんと「誰とでも寝る」知花。
『いばら姫のおやつ』は『裏・ハチクロ』とでも言えるような作品だ。
(作品としては『いばら姫』の方が先)

『ハチクロ』はおもしろいし、いい話だと思うけど、羽海野さんは「やさしい」から、結局のところ、本当の懊悩や葛藤を書いてないと思う。であるが故に、大人にも読めるすてきなファンタジーが出来上がったわけなんだけど、あれって「虚構」だよね。
そのウソを押し通すために、誰の恋愛も叶わなかった(修ちゃんにしてもしかり、と私は思ってます)わけで、結局のところ、作品の大きな構造として言うと問題を全部先送りにしただけなのではないかと。
「だから」なのかもしれないけど、『ハチクロ』への批判ってまず目にしない。
(いい年した大学生&院生の恋愛にしては「幼稚」とか、現実の美大はあんなにキレイじゃないとかくらいか)

その点、『いばら姫のおやつ』には容赦ない酷評が寄せられている。
作品の出来に対してではなく、大人が普段の人生を無難にやり過ごしていくために目をつぶっていることを無理矢理突きつけてくるようなところに。
(『ハチクロ』では絶対に語られないであろうが、「小学生みたいな裸を見て、男たちは困った顔をした」「16歳になっても生理の来ない身体」なんて台詞が出てくるのだ)
「イタい」というのがネット批評のかなりの部分を占める。
それはその通りなんだけど、ただ「イタい」に終わっていない明確な救いがこの話(および大概の石田敦子作品)にはあって、これだけ厳しい現実と人間の心の闇をのぞいた上で、この作者は救いの物語が描けるモノだと関心を通り越して感動する。
また、そうしたダークサイドを直視しながら、精神の健全性や健康を保てる作者に驚愕する。
だって、ハチキンの西原理恵子やエネルギッシュの固まりみたいだったNOKKOが鬱病になっちゃう(この二人と石田敦子氏は同年代。ちなみに私も)絶望的な現代において、あえて闇と向き合って、それでいて希望の物語を書けるのは、ものすごいことだと思う。


もうひとつ、『ハチクロ』(および羽海野作品)に覚える違和感として、登場人物が「優越者」だということ。
なんだかんだ言って『ハチクロ』の登場人物は、何かしらの才能を持っているし、10巻に収録されている暗記パンの話にしても、主役の「捨て子」で異形の宇宙人は、とても優秀であるわけだし。
羽海野チカには、才能がない登場人物が海野流のやさしさを発揮するマンガを書いてみて欲しいと思う。でないと、その優しさは単なる優越者の余裕でしかないように見えるから。
(『スピカ』はそんなに才能あるヒロインではなかったようにも思うが、はっきりとは覚えてない。ただ、いっぱしのバレリーナ候補生ではあったはず)
# by namake5963 | 2006-11-10 22:32 | 知的クラスター


青春力
遅ればせながら『涼宮ハルヒ』にはまり、その勢いであちこちで勧めて回っています。

反応はキレイに割れます。
気に入る人は本当にはまるし、そうでない人は「たくさんあるSFじたての学園ラブコメ」の一つとしか思わない。『ハチクロ』にはついてきても、『ハルヒ』には入れ込まない人ってけっこういるなあ。

その理由は何となく分かる。
『ハチクロ』が「青春を終えた人が懐古してその時代を描いている」のに対して、『ハルヒ』は「現在進行形の青春モノ」だから。
真っ最中の青春期にいる人は自分が生きている今を「人生の最も大事な時期」とか「あまずっぱい」とか思ったりしない。むしろ、自信の未熟さやいたらなさに歯がゆい思いをし、懊悩や煩悶してると思う。
歳を取ってその苦悩を忘れて初めて、「青春は良いものだ」と思うようになる。
『ハチクロ』は、老人が主人公たちの苦悩を眺めて、うらやましがったりしてほほえましい視線を投げかける。そういう視点があちこちにしかけてあるから、年配の人でも感情移入しやすいし、安心して読める。

対して『ハルヒ』は不親切だ。
主人公の涼宮ハルヒは、もし現実にいたらただのいかれたおねーちゃんである。ネタバレになるから割愛するけど、高校デビューの台詞を実際の生活の場で耳にしたら、その人とはお近づきにはなりたくないと思うだろう。
また、語り部であるキョン君は徹底して普通である。
似たような作品構造である『うる星やつら』の諸星あたるは、特に能力がないようであっても「史上最高の浮気男」というような特徴があった。
けど、キョン君は、宇宙人と未来人と超能力者の保証付きで、ただの人でしかない。
感情も(特に初期は)露わにしないので、「ハチクロの竹本君」的な等身大のキャラクターとしても感情移入できない。
ほかの登場人物たちも、「どたばたコメディを形成するための類型的なキャラクター」のように設定されているので、これまた感情移入できるものではない。

最初は、そう思う。
だから、この作品に関しては評判は聞きつつも、スルーしてきた。
(試しに読んだマンガ版のできが悪かったせいもある)
ところが、読み進めて分かってゆくのだが、「類型的」に見えたキャラクターは、その個性をいかしつつ、だんだんと人間的に成長してゆく。
つまりこの話は、(大人社会から見ると)収まりの悪い個性を持ったキャラクターが、その個性を十分に発揮しながら、青春を堪能して、成熟に至る(であろう)過程を現在進行形(語り部の設定がうまい)で語られているのである。
文学には疎いのですが、これって画期的な作品構造じゃないの?(いや純文学とか前衛小説で前例はあるでしょうが、ライトノベルでその構造を実現してるのがすごいなと)
しかも、成熟とは何かという非常に難しいテーマ(田中康夫がこのテーマでNAVIに小説を書いていたっけなあ。全然おもしろくなかったけど)をうまく扱っているよなあとつくづく思う。

ただ、この作品につきあうには、「思春期の馬鹿さ加減」とむきあう体力と精神力がいる。
冷静に思い出してみればたぶん誰もが、かつてはハルヒのように非常識であり、ハルヒのように突拍子もないことを夢見ていて、やはりハルヒのように日常に退屈していたはずなのだ。
青春というのは、『ハチクロ』の青春スーツのように脱いだり着たりできるものではなく(確かにその構成要素は間違った思いこみとか嫉妬とかでできてますが)、ぬぐってもぬぐってもわいて出る夏の日の汗のようなものだ。
その鬱陶しさと爽快に耐えられないとこの話には入り込めない。
その人の「青春力」を試す作品だと思います。




小説とアニメは非常に良くできていますので、お勧めです。
マンガ版は、大人の事情により二系統あるのですが、どちらもできが悪いのでお勧めできません。
# by namake5963 | 2006-11-10 20:15 | 知的クラスター


シティバンクは信用できない
海外でATMを使うときに便利だから、シティバンクの口座を維持している。
普段はあまり使わないので、口座手数料がかからない条件だけ維持して、あとは放りっぱなし。

ところが、今日になって「大切なお知らせ」とかいうメールが来て、口座維持条件が変更になっていた。変更の日時が明確でないので、いつからなのかよく分からないけれど、とにかく「こうなっている」と、今までとは違う条件が書いてあった。

私は、あそこの銀行の被害に遭うのは初めてだが、かつては住宅ローンをさんざん売っておいて、さっさと撤退したりと、一貫しないサービスはさんざん見てきた。
そのくせ、キャッチコピーは「日本人には二つの銀行口座が必要です」(≒貯める口座と使う口座、もちろんシティは貯める=裕福な人向けの意味)とか言ってるんだよなあ。いけしゃあしゃあと。
悪いけど、安定して使えないよ。
多少のお金があったって、住宅ローンユーザーでさえ(取引高数千万円だろ?)でさえ、切り捨てられるわけだからなあ。

さすがにバカバカしくなったから、解約しようかなあ。

しかし、公約をあっさり翻す会社が増えたねえ。
特に外資。
ボーダフォンの10の誓い(だっけ)は、全然守られなかったし。
ISP華やかであったころ、ブリティッシュテレコムとかの外資系通信企業もぼこぼこ進出してきては、さっさと撤退したしなあ。
外資が悪いとは決めつけられないけど、いい加減なところも多いよなあ。
# by namake5963 | 2006-11-06 20:30 | 産業クラスター


アニメがお仕事! 今月号
OURSの新刊で『アニメがお仕事!』の今月号を読む。
幕間で話は進まず、それでいて読んでいてつらい話でした。
勢いをつけたくて読んだので、いささかがっかり。
(勝手な感想ですが)

気分転換で『涼宮ハルヒ』のDVDその3を借りてきて見る。
うーん、原作もおもしろいが、アニメはそれをさらに理解して、深く再構成しているなあ。
ほほう、アニメ版だとハルヒにも悩みがあって、それが語られるのね。
ふーん、「白雪姫」のエピソードも原作とは違うんだなあ。
おもしろくて気分転換にはなりました。

「京アニ」という言葉は、この作品で初めて知りましたが、なるほど、独自ブランドを建てるだけの実力ありますね。動きの表現がすばらしいとは、1,2でも思いましたが、3枚目を見て、ストーリー構築能力も感じましたね。
# by namake5963 | 2006-10-30 22:33 | 解放区

< 前のページ    次のページ >
なまけることで「次のリーディングカンパニーをここから生み出していこう」
by namake5963
カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
最新のコメント
<a href= htt..
by serega at 16:29
<a href= htt..
by serega at 16:29
<a href= htt..
by serega at 16:29
<a href= htt..
by lostyand at 13:50
<a href= htt..
by serega at 01:51
<a href= ..
by lostyand at 09:36
<a href= htt..
by serega at 07:39
<a href= htt..
by lostyand at 06:23
<a href= h..
by sweetpea-ss at 22:02
<a href= h..
by sweetpea-ss at 22:02
最新のトラックバック
高橋留美子の「1ポンドの..
from ランプサクス ~ディープの世界~
ホワイトカラー
from ホワイトカラー
涼宮ハルヒの憂鬱の●●●
from 芸能界最近注目の●●●
年金に関するななぞかけを..
from なぞかけブログ
僕と「オレンジ☆ロード」
from 熱血!!☆ダッシュマン☆鈴木..
なんじゃおぬし?それがし..
from 焼きプリン定食(2個目
Boomers vs. ..
from 404 Blog Not F..
田中圭一 - ヤング田中..
from BOOKVADER
ベアテ・シロタ・ゴードン語録
from 虎視牛歩
田中圭一 『ヤング田中圭一』
from たもとのあれこれ日記
ライフログ
おすすめキーワード(PR)
ファン